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入院状況かいつまんで その2 [亡くなるまでの経緯]

昨日は申し訳ありません。かいつまんで書くつもりが、つい深入りしてしまい、自分から撤退してしまいました。本日は、その続きと亡くなる時までの様子を、やはり「かいつまんで」お伝えします。

◆◆◆◆◆2月
入院した病院ではほとんど毎日通っていました。日によっては2回も。そして、リハビリの担当が今日も来ました。このリハビリは誤嚥して落ちついたころ、入院して1週間してから行われていました。

私は、これで「あっ、リハビリやるんだ、じゃあ絶対回復するんだな!」と思いました。誰もが、そう思いますよね? だって、もう亡くなる人にリハビリなんてするか?(終末医療ではやるようですが、そんな説明もないしね)

結局、この病院では最後までリハビリを行いました。

何をやるかというと、四肢をマッサージし、乾燥を防ぐクリームを塗り、車椅子に移動して院内を散歩するのです。でも母はほとんど表情がない様子でした。元気がないなあ、、やはり点滴だけだしねえ、、。

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2月末になると、「転院」の準備です。転院先の病院の情報を知らされ、希望を出して、、後日その病院へ出向いて話を聞いてそこに決めました。医師らは、糸島にある大きな病院を勧めましたが、車で数十分もかかりそうだと言うことで私は嫌でした。そこで生の松原海岸沿いにある、ここも大きな病院が良いと思い、そこに決めました。ここなら近いし歩いても行けるし。(歩いて30分かかるが)


◆◆◆◆◆3月6日~
この日に転院しました。ここはとても広く、母の病室は2階で4人部屋でしたが、とっても広かったし、母は窓際でした。[わーい(嬉しい顔)]

--- お母さん、とっても広いよ、、寝ていると海は見えないけど、海が見えるんだよ! ---

ところが、この病院へ移ってからは、コロナ禍によって「面会謝絶」になりました。転院したその日だけ、病室まで入れたのですが、、。それで前回書いたように、デジカメで撮ってもらうことにしました。


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2、3日して医師から「胃ろう造設」の話がありましたので、お願いしました。前の病院では、大動脈瘤が食道を圧迫して内視鏡が通らないから「できない」と言われていましたが、ちゃんと造設できたのです。私は、医師に感謝しました。ありがとうございます。

医師から「先ずは水から入れて、徐々に栄養を入れます。あとは本人の生きる力ですね。」と聞きました。よかった、これで回復の望みが繋がった!、、と思いました。

数日は問題なかったのですが、その後「熱が出たり」して、少し体調が悪化している模様です。

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3月末に「余命1~2週間」と宣告されました。

そして、4月15日に息を引き取りました。[もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)]



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何故、最初の病院で「胃ろう」を造ってくれなかったのか、もしそこで「胃ろう」ができていれば、もっと生きながらえたかもしれない。などと思っていました。でも、もう亡くなってしまったのです。

その後、時間の経過とともに私の考えも変化しました。

やはり母は、あの誤嚥した段階で「寿命」だったのだ、と。最初に入院した医師らも、転院した医師もそのことはわかっていたんでしょう。転院後に「胃ろう」を造ってくれた医師も、微かな望みにかけたのでしょうが、やはりもう寿命だったんですね。


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