2011年7月 退院した直後その3[補足] [認知症と病気と介護]
■■■初めての方はお母さんの目次をご参考に■■■
この年の7月については全く書いてなかったので補足です。とは言っても大きな話題はほとんどないのですが、、、。(^^;
2011/06/28 母79歳 千石の郷 姫蛍にて
そう言えば、このころの写真は「これ」があったのだ!
この年の7月については全く書いてなかったので補足です。とは言っても大きな話題はほとんどないのですが、、、。(^^;
2011/06/28 母79歳 千石の郷 姫蛍にて
そう言えば、このころの写真は「これ」があったのだ!
◆◆◆
7月前半は、ほとんど家で過ごすことが多くて、ベッドで寝ている時間が多いように感じていました。「このままでよいのだろうか?」なんて不安げな様子で書いていますが、それも日にちを重ねる度に減ったきたと書いてあります。少しずつですが回復基調に向かっているんでしょうね。
また、たまに ”おもらし” すると書いてあるが、大小どっちかはわからないなあ。たぶん ”小” 。
他に、午後になって、西新の美容室へ行くと言いだしたが、もう遅くなるのでやめさせました。その後、行ったのは8月になってから、、どういうこちゃ?
大学病院へ術後の経過観察に行ってきた時には、 ”足の付け根に2cm大の大動脈溜があるが、まだ大丈夫” と言われましたが、そう言えば、その ”足の付け根” に関しては、その後全く出てきていません、どうなったのか?、、と思ってももう関係ないし、、。
それから血圧が高く、180を超えることもあると言うと、医師はほとんど気にしていない、、と書いてあります。これも、今思えばどうだったのか?、、と思わざるを得ませんが、今となってはですねえ。
◆◆◆
後半に入って、徐々にベッドに居る時間帯が短くなってきた、と書いています。起きてる時間が多くなってきたんですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
こういう、 ”日記” として、母のことを書くようになったのは、今回の入院からでした。それまでは、ほとんど自分の日記には、母のことは出てこなかったんですが、毎日記録しているとは、、やはり母のことが相当気になっていたんですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
社中(お茶のお弟子さんたち)の方4人へ向けてお手紙(内容は忘れましたが、お稽古するかどうか?)を、それぞれの家へ車で届けました。郵便ではなく直接届けるのは、母がそう言った?のかどうか?、、もう忘れましたが。兎に角、住所をカーナビに登録してナビの通りに進むと、ちゃんと着いたのです。当然と言えば当然ですが、そのころはちょっと感動しましたね。
その後、「コンビニでおむすびを買ったり、三瀬のパン屋でパンを買って食べた、お母さんよく食べた。」と書いてありました。どこで食べたんでしょうか?、車の中かな?、、まあそういうことは、この後もけっこうあったので。帰ってからはベッドへゴロリと、疲れたようでしたね。
このころでも、やはり ”おもらし” があったようです。もうこれは、 ”治るのことはない” と感じていたようです。
処置することを嫌がったりしたことなどは全然書いていません。また、私の気持ちとしても、 ”下のお世話” は不快なことではありませんでした。やっぱり、 ”お母さん” だからね。(^o^
「薬」は自分で飲んでいたようですが、時々忘れることがありました。このころも、朝と夜の服用で特に朝の分が多かったのです、自分も気にかけるようになりました。
近くの「うどん屋」へ久々行って「味噌煮込みうどん」を完食した、と書いてありました。 ”食” も戻ってきたようです。
社中の方々が家にお見舞いに来られました、、帰ってからやはり疲れたのか、午後はベッドで寝ていました。その時の内容は書いてなく、記憶にもないのですが、母はお弟子さんたちが見えられたことで嬉しかったのでしょう。嬉しくて気もつかい、体力も使って、疲れてしまったんですね。
モンベルで登山用ステッキを購入したのは、この時期でしたね。
ダイエーへ買物へ行った帰りに、いつもの「花屋」(家から歩いて100mもない)へ母だけ降ろして私は家は戻りました。すると、母は歩いて帰ってきたのです。まあ、大丈夫だったんだね。そして自分でさっそうとお花を活けたのです。その時は、もう昔に戻ったみたいですね。
そして、31日には夕飯の用意の時には、母は自分で ”きんぴら” を作ったと書いています。料理も復帰か!
まあ、何とか元に復帰してきたようですね。(^o^
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7月前半は、ほとんど家で過ごすことが多くて、ベッドで寝ている時間が多いように感じていました。「このままでよいのだろうか?」なんて不安げな様子で書いていますが、それも日にちを重ねる度に減ったきたと書いてあります。少しずつですが回復基調に向かっているんでしょうね。
また、たまに ”おもらし” すると書いてあるが、大小どっちかはわからないなあ。たぶん ”小” 。
他に、午後になって、西新の美容室へ行くと言いだしたが、もう遅くなるのでやめさせました。その後、行ったのは8月になってから、、どういうこちゃ?
大学病院へ術後の経過観察に行ってきた時には、 ”足の付け根に2cm大の大動脈溜があるが、まだ大丈夫” と言われましたが、そう言えば、その ”足の付け根” に関しては、その後全く出てきていません、どうなったのか?、、と思ってももう関係ないし、、。
それから血圧が高く、180を超えることもあると言うと、医師はほとんど気にしていない、、と書いてあります。これも、今思えばどうだったのか?、、と思わざるを得ませんが、今となってはですねえ。
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後半に入って、徐々にベッドに居る時間帯が短くなってきた、と書いています。起きてる時間が多くなってきたんですね。
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こういう、 ”日記” として、母のことを書くようになったのは、今回の入院からでした。それまでは、ほとんど自分の日記には、母のことは出てこなかったんですが、毎日記録しているとは、、やはり母のことが相当気になっていたんですね。
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社中(お茶のお弟子さんたち)の方4人へ向けてお手紙(内容は忘れましたが、お稽古するかどうか?)を、それぞれの家へ車で届けました。郵便ではなく直接届けるのは、母がそう言った?のかどうか?、、もう忘れましたが。兎に角、住所をカーナビに登録してナビの通りに進むと、ちゃんと着いたのです。当然と言えば当然ですが、そのころはちょっと感動しましたね。
その後、「コンビニでおむすびを買ったり、三瀬のパン屋でパンを買って食べた、お母さんよく食べた。」と書いてありました。どこで食べたんでしょうか?、車の中かな?、、まあそういうことは、この後もけっこうあったので。帰ってからはベッドへゴロリと、疲れたようでしたね。
このころでも、やはり ”おもらし” があったようです。もうこれは、 ”治るのことはない” と感じていたようです。
処置することを嫌がったりしたことなどは全然書いていません。また、私の気持ちとしても、 ”下のお世話” は不快なことではありませんでした。やっぱり、 ”お母さん” だからね。(^o^
「薬」は自分で飲んでいたようですが、時々忘れることがありました。このころも、朝と夜の服用で特に朝の分が多かったのです、自分も気にかけるようになりました。
近くの「うどん屋」へ久々行って「味噌煮込みうどん」を完食した、と書いてありました。 ”食” も戻ってきたようです。
社中の方々が家にお見舞いに来られました、、帰ってからやはり疲れたのか、午後はベッドで寝ていました。その時の内容は書いてなく、記憶にもないのですが、母はお弟子さんたちが見えられたことで嬉しかったのでしょう。嬉しくて気もつかい、体力も使って、疲れてしまったんですね。
モンベルで登山用ステッキを購入したのは、この時期でしたね。
ダイエーへ買物へ行った帰りに、いつもの「花屋」(家から歩いて100mもない)へ母だけ降ろして私は家は戻りました。すると、母は歩いて帰ってきたのです。まあ、大丈夫だったんだね。そして自分でさっそうとお花を活けたのです。その時は、もう昔に戻ったみたいですね。
そして、31日には夕飯の用意の時には、母は自分で ”きんぴら” を作ったと書いています。料理も復帰か!
まあ、何とか元に復帰してきたようですね。(^o^
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2022-06-27 10:20
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